全て、自分のしたい事をする時、犠牲というものは付き物である。
そう、宿題という犠牲が。
いや、宿題をする時の束縛感か、それとも、その時の心か…
犠牲というものは付き物である。
しかし、イエス•キリストのもとへいく時、犠牲は無くなる。
犠牲に垣間見えるものも、祝福への前兆なのだから。
しかし、それは感謝し、喜び、神様の前に喜ばれることをした時だ。(あるいは恵みか。)
また、それが犠牲に見えた時、すぐに諦め、怒り、失望したら、深い恵みがない限り、それが祝福されるわけもない。
それにしても、知識とは恐ろしものである。
私のような浅い、薄い知識でさえ、私を高慢にし、人を裁き、また行動とともわない時、自分にイライラし、八つ当たりし、その他諸々の諸問題が発生し、それが大きい問題となり…
しかし、本当の知識は違う。
人を見下さず、『そのまま』の自分に満足せず、『ありのまま』の自分に感謝して、へりくだる。まさに、能ある鷹は爪を隠すである。
まさに、私には程遠い話である。
要するに、前者の知識は、三流が気取った知識なのである。
では。
以上!宿題から話を盛りに盛り上げた、IZAでした!
じや〜ね〜!
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