2014年3月6日木曜日

犠牲

全て、自分のしたい事をする時、犠牲というものは付き物である。

そう、宿題という犠牲が。

いや、宿題をする時の束縛感か、それとも、その時の心か…

犠牲というものは付き物である。

しかし、イエス•キリストのもとへいく時、犠牲は無くなる。

犠牲に垣間見えるものも、祝福への前兆なのだから。

しかし、それは感謝し、喜び、神様の前に喜ばれることをした時だ。(あるいは恵みか。)

また、それが犠牲に見えた時、すぐに諦め、怒り、失望したら、深い恵みがない限り、それが祝福されるわけもない。

それにしても、知識とは恐ろしものである。

私のような浅い、薄い知識でさえ、私を高慢にし、人を裁き、また行動とともわない時、自分にイライラし、八つ当たりし、その他諸々の諸問題が発生し、それが大きい問題となり…

しかし、本当の知識は違う。
人を見下さず、『そのまま』の自分に満足せず、『ありのまま』の自分に感謝して、へりくだる。まさに、能ある鷹は爪を隠すである。

まさに、私には程遠い話である。

要するに、前者の知識は、三流が気取った知識なのである。

では。

以上!宿題から話を盛りに盛り上げた、IZAでした!

じや〜ね〜!

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