僕は今度15歳になりますから、まだ15年にも満たない人生を歩んでいる僕でさえも、
色々懐かしい日々があるものです。
こういうと、ジジくさいとかいうかもしれませんが、たしかに、年寄りの方が懐かしいことはたくさんありますけど、事実僕にも懐かしいものはあります。
ジジくさいっていう概念はおかしいですね。
懐かしいもんは懐かしいんですよ。
でも、思い出したくない過去とかあるわけです。
思い出すだけで喘いでしまいそうな過去とか、あります。
子供なのに良く言うよ。なんていいたいかもですが、子供は子供なりにあるわけです。
まあ、そういった過去はどういうのかといったら、僕の場合は大抵、自分の罪が絡んでいます。
そしてまたその罪のために、思い出したくない過去を今後も作ってしまいます。
「いま」その最中かもしれません。
例えば、
罪を犯す→悔い改める→赦される→また罪を犯す→本当に悔い改める→赦される→またまた罪を犯す→本当に本当に悔い改める→赦される
こんなことを繰り返していくと、自分が嫌になります。
何度もなんども繰り返すと、自分に呆れたり、自暴自棄になったり、自分に対して泣きたくなります。
それでも神様はわたしを愛してくれて赦されてるんだなーって感じたり、語られたりするときは、ほんとになんともいえず、泣きたくなります。
でもどんなにメッセージを聞いて、「あぁ、そうなんだ」
って思っても繰り返してしまいます。
そうすると、神様の赦しが受け取れなくなります。
もう、俺なんか赦される価値なんかない、失格だ。とか、神様に会わせる顔がないとか、
最悪、心の奥底でまた同じことの繰りかえすんだろうと思いながら悔い改めたりします。でも、それでも本当に悔い改めようとはしてるんです。
でもそしたら、改まってないといって、自分が嫌になり、、、
ずーっとその連続です。
そのことでずーっと悩んでたんですが、最近ちょっと思うことがあります。
イエス様は、1番権威があり、1番おそれられるかたであり、また、裁くのも彼です。
しかし、イエスキリストは何のために地上に来たのかって、やっぱり十字架が最大の理由だと思うんです。
十字架は、その、思い出したくない過去のために、赦される価値なんてない、失格だ。とかのためにあるんだと思います。
『わたしは裁くために来たのではなく、救うために来たのです。』
『医者を必要とするのは病人です。わたしは正しい人を招くためにではなく罪人を招くために来たのです。』
十字架ってのは愛の表れですから、イエス様は裁く神であり、権威があり、また、愛があるんですが、その愛を僕はたぶん軽んじてたんですね。
軽んじる気なんでないんですが、軽んじてたんです。
僕の場合は十字架のことを深く考えると涙がでそうになるんですが、だからこそこんな罪深い俺が恥ずかしいからなんか、いやだったんですが、
でも、その考えは根本的に違うのかなーと。
イエス様はその罪、その、嫌な原因その物の罪に対して、それが赦されるために、何度でも、何度でも、赦されるために、十字架にかかったんだと思います。
だからこそ、半端じゃない十字架を受けたのかもしれません。
自分たちの罪が半端じゃないからこそ。
でも、なぜそれができたかって、神だからってのもあるんでしょうけど、何より、何より何より、それをするほどにまで、
半端じゃない十字架を負ってまで、あなたの罪が赦されるために。
とかじゃないと思います。Σ(・□・;)
そんな、義務的なものではなく、
半端じゃない十字架を負ってまで、あなたを愛してたからなんです。
うぅ…なきそう。
好きな人にはなんでもしてあげたいのと同じように、それ以上に、十字架を負ってまで愛してたからです。
十字架ってのは、両手両足に釘を打って、そこに全体重が乗り、また呼吸困難になり、木は、でっかーいささくれみたいなのがあり、それが39の鞭を打たれた血だらけのイエス様の背中に突き刺さり、それにまた、体重がのるんです。
これを負ったのは愛してたからであり、結果的に赦されるためです。
そして、それを受けただけでなく、罵倒まで浴びせられています。
こんなおおおおおきな愛で、こんなおおおおおきな尽きない赦しがあるから、その赦しは受け取るのが必然です。
それに気づいたんですね。
どうせ、また罪犯すけど、それで悩むのではなく、真に悔い改め、赦され、もう、縛られることはなくなると気づいたんですね。
こんなことを今更気付かされた、14歳、今後の人生また、いろんなことあるんでしょうけど、イエス様とともに生きたいです。
IZA
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