2018年8月10日金曜日
2018年7月31日火曜日
人間主義
人間を否定したいわけでもなく、肯定したいのでもなく、真理として、人間は罪人です。
そもそも罪人だから、人としての存在を肯定しても、その罪の部分を含めて肯定するわけにはいかないと思うんです。
人間の愛や心は信じるに値するかもしれません。でも完璧ではありません。
パスカルも言ってたように、人は人の惨めさや汚さを直視できない弱さがあると思います。
三浦綾子の本を読めばその気持ちもわかると思います。
人の心はとにかく汚れていると思います。
感動する話や人間の愛に打たれることはあります。でも、人間は罪人です。でも、 人の心は人に見せたくないような汚い思いで溢れています。
その人間の罪の部分が人としてのあらゆる問題の根源なのに、善らしきもの部分ばかりを誇張して人間の罪を分からなくするから 、傷つく人も増えるのだと思います。
人間絶対主義というのは、想像を絶するほどの高慢の上に成り立っているのだなとすごく今思 いました。
神が僕たちを愛してくれたのは、神が僕たちを作ったからで、1%も神の前に誇れるものはない。
人間を信じたい気持ちを否定したくはないです。でも、真実はどちらかです。
この罪人のために身代わりに罪を引き受けたイエス様の愛というのは、なんて計り知れないのだろうと改めて思います。
倫理??
倫理・・・
①人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道
②倫理学の略
倫理学・・・
人間の行為や社会関係を支配する道徳について、その起源・発達・本質・意味を研究する学問。
高校の文系では倫理を習います。言い換えると哲学のようなものです。
倫理は上の辞書の言葉によると〈人間の実践すべき、「踏み行うべき」規範の筋道〉です。
これは、あくまで、「踏み行うべき」ものの筋道であって、踏み行わなければ、本末転倒ですよね。
さて、倫理や哲学に興味をもち始める人たちがぼくの年ごろには多いと思い ますが、少し気になることがあります。
一人一人が哲学や倫理に熱心になるのは構いませんが、その理論や思想を「理解する」ことで「人としての格」 が上がるわけではないと思います。
場合によれば上がるかもしれません。でも、「理解した」から人より偉いとか、 人としての根本を知ってるのは俺の方だといって、偉そぶりを〈 たとえ心の中ででも〉するのであれば、 それは倫理から外れています。
数学や英語とはちょっと違って、倫理の内容はもっと、人としての根本を扱うものだからこそ、 テストの点で測るのはあくまで知識だけであって、 その人の人間性を測るものであってはいけないと思うんですよね〜 。うんうん。
そして、倫理の教科書や図説には沢山の哲学者たちがありとあらゆる思想を 述べていますが、それを一生懸命に読むことは構わないのだけど、 でもそれは人の考えの受け売りであって、自分で考えて、 自分自身が「人としての根本」と向き合わなければ、 意味がないと思うんですよね。
受身で取ってつけたように人の考えを、しかも「自分と共感するものだけ」取り入れていては深さはないだろうし、 それは自分の都合のいい方向に生きていくのを加速させてしまうだ けのような気がします。
これも数学や英語とは違って倫理にはこれといった答えは書いてないから、教科書が全てではないし、 あくまで自発的に考えるものだと思います。
そして、「神の存在」には〈必ず〉答えがあるわけで、いるなら人形のように飾られてるだけではなく、〈意志〉 というものがあるわけで、でも人間は神の意志ではなく、 自分の意志しか考えていない。そして神がいるならそこには〈 人格〉があるわけで、その人間をどう思って、 どうしようとしているのかという真実があるわけです。
そして、哲学者の中には死と向き合っている人もいますが、ほとんどの人たちは「どのように生きるか」を考えて、 死後のことなんて誰も考えない、 もしくは考えてもどうにもならんさという。 でもそこにも必ず答えがあります。
人それぞれが正解じゃ困るんですよ。人それぞれじゃ困る!!!!
一つしかない答えというものがあるからです。
だから、共感する哲学だけを取り込むのではなく、かと言って共感しないのを取り込むのでもなく、何が真理なのか、 何が本当の答えなのかを知りたいと思う心がまず必要だと思うんで すよね。その上で倫理なり哲学書なり読めばいいと思います。
自分の都合のいい真実ではなく、真実を真実として求める心が必要ですよね。
心が通じる
「ぼくはこう思ってる、口から出た言葉の数だけ、誤解も多くなるとね。」
どちらも三浦綾子の本の言葉です。積み木の箱(上)と裁きの家です。
簡単に心と心のつながりというけど、言葉を交わさずに通じ合えてると思うのは、 互いの都合のいい誤解の重なりで、 でも言葉を使うほど遠のいていくような気もします。
「だって、人間はね、誰も相手の言うことなんか、聞こうとしてやしないよ。対話と見せかけて、結局は、 自分の言いたいことを押しつけてくるだけだよ」(中略)「 そうだよ。誰もがね、お前はそう言うが、 違うぞと言った顔つきで話をしているよ。対話なんかないよ、 あるのはモノローグだけさ」 (裁きの家)
男も女も、結局は自分が理解「される」ことばかり求めていて、相手を理解しようとすることが少ないのかなー、っと思いました。
自分が主眼で、果たして相手は自分の心に気がつくのか、という観点から心のつながりを推し量るけど、実はそうではなく、 理解されることよりも理解することにもっと大きな意味があるのか なーと思いました。
イエス様は地上に理解者はいませんでした。バプテスマのヨハネも処刑されたし、、、
弟子たちは何も理解しませんでした。
それでもイエス様は弟子や罪人と共に食事をし、話を聞いていたのかなーって思います。
理解し、本当の意味で隣女になったんだと思います。
「解決がなくても、寄り添うことはできる」
なんて言葉ヘドが出るほど大っっ嫌いなんですが、でもたしかに僕たちに解決はありません。
でもこのキリストだけが理解し、寄り添い、解決を与える愛なんだなと思います。
このキリストと心つながることができると思います。
そしてこのキリストを通じて、十字架の愛を通して、お互いの人間関係もすごく強いつながりというか結びつきというか 、まさしく神の家族?のような、心のつながりを感じるわけです。
ここでいう心のつながりは、なんか、一般でいうものとは違って、確かに理解できないところとか、分からないところ、 合わないところがたくさんあるんだけど、 それでもひとつになれる心のつながりを感じるんですね〜。
うまく言葉では言えませんが。
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三浦綾子の本
いま、三浦綾子さんの本にはまって読んでるんですが、罪がすごくはっきり書かれています。
罪っていうのは心に働くもので、心の中の汚い罪が克明に書かれているので、 少し読むのがきつい時もあります。
自分がこれまでどれだけ浅く生きてきたかを感じらされるし、男性として、尊敬できるところや共感できるところが多いですね。
まだそれほどたくさん読んでるわけではないですが。。
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2018年7月30日月曜日
Fwd: お久しぶりです
なからくブログアップしてませんでした。
すいません。
その間に18歳になってしまいました。
18歳は大人ではないけれども、その境界線には入った年齢だと思います。
大人の世界に入っていくわけですが、いつまでも純粋なバカでいたいです。
キリストに真っ直ぐで単純なものでありたい。
変に知識で固めた言い訳めいた大人になりたくない!!
そうは言うものの、もうその兆候がでてるんですね〜これがまた。
あーなんて自分の心は言い訳めいた生き方をしてるのだろうと思いますし、不潔で汚い心なんだろうと思いますが、 それでもそこで折れたくないし、人ってそんなもんだよ〜あはは、 なんてなりたくないし。
でも、そうやって自分の力で善の領域に達しようとして失敗してきたので 、もうこれでいいのだと思います。
このウンコのような俺を愛して命まで捨てたイエス様を信じるって言うのは、そういうことなのかもしれません。
もうこれで愛されてる、このままで愛されてる。
実はこの言葉あまり好きじゃなくて、甘ったれたこと言ってねぇで、 だったら悔い改めの実を見せてみろよこん畜生。 と思っていたのですが、なんか、本当に、 これで愛されてるんだな、 この存在を喜んでるキリストがいるんだなーと思うと、 この深さに感動します。
まとまりのない話でしたが以上です。
2018年6月28日木曜日
上にたちたい
あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
イエス様の望んでいる姿は人が求める姿と大きく違うな~っと思いますね。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様は口だけじゃなくて事実行動で示し、十字架で命まで捨てたと思うと改めて感動です。
神の子であるキリストが下の下の地獄まで落ちた。だからこそ神はキリストを高くあげられたともある。。
王座の王座の上に君臨している父なる神が絶対的権威をもっている。というのも、なんか僕にとってはすごく安心です。
とりあえず、プライドを捨てたいです。
2018年6月17日日曜日
2018年6月10日日曜日
知ることと個人的に知ること
知ることと個人的に知ること
また最近さぼってました
2018年5月15日火曜日
2018年4月23日月曜日
聖書の言葉
それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。—神である主の御告げ—悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。—神である主の御告げ—だから、悔い改めて、生きよ。
これがはっきり語られましてねー。
それいがいの箇所もたくさんあるし、ヨハネの福音書も開けばあるのですが、ブログじゃ書ききれません。口で話します。
あ、あと、これも語られました。
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
二心のある人たち、心を清くしなさい。
アーメン!!!
2018年4月22日日曜日
ディスカッション
2018年4月15日日曜日
夜空の星に
夜の夜空に願い事
星を眺めて呟くの
淡い心の微かな気持ち
知らないようで無視できない
真っ暗夜空の暗闇に
静かに光る微かな星たち
どんなに遠い光でも
私のもとに届いてる
消えないあなたのその光
なんだか強さを感じるわ
小さな小さな明かりには
揺れない何かを感じるの
消えない光を確かめながら
淡い願いを心に刻むの
2018年4月14日土曜日
2018年4月12日木曜日
ひいらぎ
嘘の嘘
孤独
まどぎわで
誕生
ひまわり
2018年4月7日土曜日
詩をあげてみましょう
↓の続き
甘やかす
2018年4月2日月曜日
若い男のクリスチャン
明日から再開
2018年3月27日火曜日
変わらないなぁ
2018年3月26日月曜日
2018年2月26日月曜日
聖霊を求める!
不思議なものです。
心からイエス様とひとつになりたい、十字架を負いたいと願うのに、
いざ宿題はめんどくさくて、すぐイライラして、、
罪をあがなわれたイエス様を思って涙を流すのに、同じ過ちをまた犯して、、
僕ははっきりと自覚しなきゃいけません。
罪にある自分はイエス様より罪を愛してるんですね。
不信仰になるって、信じてないってこと、イエス様を信じてないのと一緒なんですよね。
そのぼくのために来たのがキリストであって、その罪を引き受け、十字架にかかり、復活されたわけです。
このかたを信じたい。そう思うけれども、罪を愛してしまう。
心では神の律法にしたがい、体は罪の律法に従っているということです。
そう思う度に十字架が思い起こされるわけです。
あぁ、このぼくのために死んだんだな。と思うのです。
だから、この方を主と告白して生きるのは、立派でもなんでもなく、もはやそうせざるを得ないし、喜んでそれぐらいしたいわけです。
でもそれは信仰生活の一部であって、本当に主を愛してるなら、みことばを実行してるはずなんです。
それが悲しいぐらいできない、してないんですね。
できないというより、してない、ですね。
自らの意思で従わないことを選んだりさえしてしまいます。
だから、どこまでも肉にある僕は罪を愛し、やがて死ぬんだなぁと思います。
そして、ぼくに住む聖霊様は神を愛し、伝道もするし、罪に生きる自分を見て悲しんでるのだろうと思います。そしてこの霊が永遠に生きるだなぁ、とそう思うわけです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」
パウロもこういっている通り、キリストの霊がぼくを動かしているんです。と、同時に罪人である肉の自分も生きているんです。
しかし、何度も書きますが、そのぼくのためにキリストは死に、すでにあがないを完成されたんだなぁ、と思うわけです。
だからこそ、イエス様とひとつになりたい。
聖霊を受けなさい。とイエス様は言われましたけど、本当に受けさせてほしい。
聖霊で満たしてほしい。心からそう思う自分がいるのに、いざそう祈ろうとなると祈らず好きな人のことばっか祈る。
こんなぼくなんです。
でももうイエス様にすがるしか無いのはわかりましたから、聖霊を求めていきたいと思います。
聖霊をうけて
いま私がこの世に生きているのは、